north America

ネイティブ インディアン

パレオインディアン
ネイティブ・アメリカン(Native Americans ネイティヴ・アメリカン)は、アメリカ合衆国の先住民族の総称。1492年にヨーロッパ系白人が現在の北米地域に到達する以前に、現地に居住していた民族の総称である。この集団のアイデンティティ形成には、地域文脈、居住地域における同胞民族の存在、ネイティブアメリカン特別保留地との距離等の要素が関連している。2013年現在、連邦政府が認める部族集団は566、州政府レベルではさらに70の集団が存在するといわれている[1]。
「ネイティブ・アメリカン」や「インディアン」、「アメリカインディアン」などの呼称をめぐっては様々な議論がある(en:Native American name controversyを参照)。ポリティカル・コレクトネスを優先した状況においては、「ネイティヴ・アメリカン」が使用されている。アメリカ合衆国において、ネイティブアメリカンにはインディアンの他にもアラスカのエスキモーが含まれ、さらにハワイ先住民や他のアメリカ合衆国領の地域の先住民も含む場合がある。また、アメリカ州の先住民族全体を指して「ネイティブ・アメリカン」と言う場合もある。
本記事ではアメリカ合衆国の先住民のうち、主に本土のインディアンを扱う。アラスカの先住民についてはアラスカ先住民、ハワイの先住民についてはハワイ先住民を参照されたい。以下、本記事では「インディアン」を用いることが多いが、本記事の「インディアン」は「アメリカ合衆国本土のインディアン」を指している。
白人、主にキリスト教徒によって行われたインディアン戦争に代表される北米植民地戦争によって大量虐殺、民族浄化、強制移住が行われた。これらの戦争の影響により、インディアンは今日でも貧困やアルコール依存症などの問題に苦しみ続けている。また、インディアンはブラックヒルズなど白人に奪われた土地の返還を求めて闘い続けているが、アメリカ合衆国政府や政府を支持する人々は土地を返還するつもりはない

人類学的特徴
ネイティブ・アメリカンのY染色体ハプログループはハプログループQが大半を占めている。Q系統はケット人やセリクプ人などのシベリアの一部でも見られるが、ユーラシア大陸ではあまり見られない系統である[注 1]。その他、ナデネ語族を話す民族には、ハプログループC2 (Y染色体)も認められる。
ミトコンドリアDNAハプログループはA、B、C、D、Xが見られる。
殆どの遺伝子タイプが北アジアや東アジアと共通していることから、ネイティブアメリカンの祖先がシベリアからベーリンジアを通って移住してきたことは確実である。その年代には諸説あり、複数波が存在したとする見方もある。一方で北米東部ではかなりの頻度で欧州に多いY染色体-R、mtDNA-Xが観察されることから、有史以前のある時期にヨーロッパから直接移住が存在した可能性も指摘されている[12][注 2]。
北部の部族は肌の色が赤黒く鼻筋が通り高く盛り上がっておりワシ鼻である人が多い。また大航海時代以降は、ヨーロッパ人との混血、アフリカ黒人との混血が進んだ部族も多い。

口承文化と言語
インディアンの歴史は口承文化の伝統とアートワークによって受け継がれてきたため、最初の文書による歴史は、ヨーロッパ系の白人によって、もたらされた[13]。固有の言語はアメリカ先住民諸語である。 英語のみを話す人々も増加傾向にある

人口 2010年の国勢調査では約309万人[14]。部族ごとに見ると、多くの人口を持つ部族はナバホ、チェロキー、チョクトー、スー、チペワ、アパッチ、ラムビー、ブラックフット、イロコイ、そしてプエブロである。
ニューヨークは全米の都市の中で最も多くのインディアンが住み、2014年には、22万8000人[15] ものインディアン(モホーク族やモヒカン族など)がニューヨークで暮らしている。都市部で暮らし、保留地外の白人の町で暮らすインディアンは、「シティー・インディアン」と呼ばれる。
2003年のアメリカ国勢調査によると、アメリカ合衆国全体のインディアンの人口2,786,652名の三分の一が、3つの州に居住している(カリフォルニア州413,382名、アリゾナ州294,137名、オクラホマ州279,559名)。

食文化
多くの部族がトウモロコシを主食とし、インゲンマメ、カボチャ、ウリなどを栽培していた。狩猟、漁労、採集と農業を組み合わせる部族が多く、プエブロを除けば多くの部族が程度の差はあれ移動性の生活を送っていた(プエブロはトウモロコシなどの農業のみによって生活し、アドベと呼ばれる集合住宅に定住するという、インディアンとしては珍しい生活を送っていた)。ヨーロッパ人と接触する以前の家畜はシチメンチョウと犬だった。犬は現在も、部族によって儀式などで食材とされており、コモン・インディアン・ドッグという犬種が存在する。北米には、イノシシの一種ペッカリーや、ヒツジの仲間ビッグホーンなどがいたが、これらは家畜化されなかった。 インディアンの食文化のうち、ペミカン[注 3]、サコタッシュ、「揚げパン(フライブレッド)」などは今日でもよく知られており、米国民の食文化に取り込まれたものもある。米国の重要な作物であるトウモロコシ、カボチャやウリ、インゲンマメ、タバコ、トウガラシは元来インディアンが栽培していたものである。 南西部のプエブロ諸族やナバホ族は、19世紀初め頃からスペイン人の持ち込んだヒツジの放牧を行うようになった。彼らの家畜数は連邦によって頭数を制限されており、年次ごとのチェックで頭数を超えた家畜は、白人の管理官によって強制的に溺死させられる。 カリフォルニアの捕鯨民族マカ族は、1999年5月17日、連邦政府が条約を破って70年間禁止してきたコククジラ漁を、これに伴うポトラッチの祝祭と併せて復活させた。シー・シェパードなど反捕鯨団体からの脅迫や嫌がらせ、州警察による漁師達の逮捕という圧力を受けるなか、2007年9月12日にも、再び捕鯨を行った。彼らはアメリカで唯一捕鯨を条約で保証されている部族であるにもかかわらず、現在、全米各地の関係者でも当事者でもない者たちから批判や訴追を受けている。 ロッキー山脈周辺の部族は、松の実[注 4] やドングリを主食とした。かつては年に一度、部族総出でドングリ採集に出かける際には村が全くの無人になった。ドングリは保存小屋に蓄えられ、粉に挽いてパンに加工して食べた。 北東部、北西海岸部の部族は伝統的に鮭を燻製にして一年分の主食とする。しかし、保留地へのダム建設や漁猟権の剥奪などで、サケ漁の現状は年々厳しくなっている。北東部では、近年になってようやく鮭の伝統漁復活が認められた部族もある。1960年代のレッドパワー運動で、真っ先に行われた大規模な抗議行動は、サケ漁の権利をめぐって抗議するために連邦法や州法を破って漁をする「フィッシュ・イン」運動だった。 風俗など 毛髪を霊力の源と考え、神聖なものとして非常に大事にする。また、ヨーロッパ人もかつて行ってきたことであるが[注 5]、共通の髪型をすることで部族の帰属を示す手段としている。 昔の写真に見られるインディアンの毛髪は非常に美しく長い。これに習い、ハリウッド映画などでは登場するインディアンの老人も毛髪豊かな人物として描かれている。しかし、前述の平原部族の三つ編み方式を知らなかったために、ウォーボンネットという鷲の羽根を連ねて立てたヘアバンドを身に付けて描かれているものが非常に多い。同化政策の一環として後述のインディアン寄宿学校に送られた男女児童は、入学と同時に頭髪を短く刈られた。都市に住むシティ・インディアンの間では、白人文化に同化して短髪が多いものの、近年は長髪が復活してきている。アメリカインディアン運動(AIM)が創設されたとき、インディアンの若者達はまず、インディアンのアイディンティティーを取り戻すために髪の毛を伸ばし始めた。これはヒッピー文化にも影響を与えた。 インディアン固有の蛮習のように喧伝されてきた「頭皮剥ぎ」は、一部の部族の間で戦果と栄誉を示すものとして古くから重要なものではあったが、そもそもは18世紀前後に「メキシコやイギリス、アメリカ合衆国の政府機関」が、敵対勢力のインディアンやヨーロッパ人を殺させて、その「証拠として頭の皮を懸賞金をかけて」募集した歴史が起源となっている。 頭皮剥ぎ自体はインディアンから始まった固有の習慣ではなく、「古代ヨーロッパにも存在した」。19世紀の北東部や平原部の若い戦士の間では、「頭皮剥ぎ」の風習の浸透に伴い、敵部族を挑発するべく後頭部にのみ髪の毛を残して頭を剃りあげ、骨片や木片の留め具で鷲の羽根と房飾りをつけるスタイルが流行した。(※下段ウィンクテの図を参照) いわゆる「モヒカン刈り」のスタイルは、17世紀に北東部のアルゴンキン族の男達が、狩りの際に弓を射るのに髪が邪魔にならないように、頭の側面を剃っていたものである。 現代の防寒着アノラックやパーカーは北極圏のイヌイットやエスキモーの防寒着を元にしており、カヤックやカヌーは現在でもインディアンの使っていたもののデザインを忠実に受け継いでいる。ラクロスは北東部部族のスポーツが全世界に広まった例のひとつである。 『ベルダーシュに捧げる踊り』(部分、ジョージ・カトリン画) ほとんどのインディアン社会は性的に自由だった。男女の役割は個人の判断に任され、またインドのヒジュラーのような聖職に従事する社会的半陰陽(両性具有者)は、ヒジュラーよりも強い地位を持っていた。白人によってこれらの存在は徹底的に弾圧され、社会的な役割としては姿を消しているが、メキシコやプエブロ諸族の一部のほか、スー族社会における「ウィンクテ」(右図)と呼ばれる存在は、女装こそしなくなったが、現在でも健在である。人類学者はインディアン社会に見られる社会的半陰陽を「ベルダーシュ[原 1]」と呼んできたが、本来の語義が「男娼」を指すエクソニムであるため、差別的で不適切と考えられている。1990年にウィニペグで開催されたネイティブアメリカン=ファーストネーション部族間ゲイ・レズビアン会議で、それに代わる呼称としてオジブウェー語で社会的半陰陽を指す「ニーシュ・マニトゥーワク[原 2]」(「二つの魂」の意)から翻訳借用した「トゥー・スピリット」を使用することが議決された。
ニューヨークのタマニー・ホール(元タマニー協会)のような民主党支持団体は、インディアンの言葉を政治に好んで用いた[16]。 日本において『アメリカインディアンの教え[原 3]』と呼ばれる詩は、インディアンではない教育者ドロシー・ロー・ノルト(英語版)が1954年に創作したものであり、詩もアメリカインディアンの伝承に基づくものではない。邦題はこの詩をノルトの創作と知らずに、自著でとりあげた『加藤諦三の創作』である。 ニューヨーク州立大学バッファロー校の歴史学者ドナルド・A・グリンドらは、アメリカ合衆国の民主制度はイロコイ連邦の民主制度がモデルとなっていると主張している。ちなみに、インディアンの支持政党は、伝統的に民主党である。 頭にワシの羽をつけ顔に化粧をするといったステレオタイプは、主に西部劇に登場する大平原のインディアンの儀式の際の姿を参考に、撮影所の美術係がデザインしたスタイルが元になっている。この映画に登場するステレオタイプは非インディアンの間で余りにももてはやされたがために、本来羽根冠の習俗のない部族にまで、このスタイルが採り入れられるようになっていった。初期のハリウッド映画では専ら白人開拓者の敵役とされたが、後年は逆に英雄視する作品が増えた。 インディアンはしばしば開拓者や建国初期のアメリカ人が新大陸で生き延びるのに多大な貢献をしてきた。米国とカナダの感謝祭は17世紀にワンパノアグ族とピルグリム・ファーザーズが秋の収穫を共に祝った出来事を記念している。ポカホンタス、スクアント、マサソイト酋長、サカガウィアらは米国の建国神話の不可欠な存在である。初期の開拓者の男性たちは未知の土地で生存するためにしばしばインディアンのサバイバルの知恵を身に付けた。彼らの中にはインディアンの女性を妻とした者が少なくなく、結果として一部のアメリカ人がインディアンの血を引いている。 数ある混血[注 6] の問題では、黒人との混血ブラック・インディアンが、根強い摩擦の種になっている。近年、チェロキー族やカイオワ族などはこれを部族員として認める裁定をしている。 インディアンに対する年金支給などを目当てに、非インディアンがインディアンの身分を偽造し、成りすます例も少数ある。イタリア移民だった著名なインディアン俳優アイアンアイズ・コディ(英語版)酋長など、単純に憧れからの成りすましも多い。 肥満率が高く、2001年の調査では男性の40.1%、女性の37.7%がBMI指数30以上の肥満であった[17]。また、糖尿病の罹患率は世界中でもトップクラスである[17]。 コロンブスが来る前におけるインディアンの金属の利用については、自然銅が良く使われていた事が分かっている(コロンビア以前のアメリカにおける冶金学(英語版)参照)[18]。鉄については一般的ではなかったが、一部の部族は鉄を知っており、オゼットインディアンビレッジ遺跡(英語版)では、鉄のノミやナイフが発見されている。これらの鉄製品は、黒潮に乗ってやってきた難破船からもたらされた物と考えられている。これらの難破船は、アジア、特に日本の物が多かったとされる。難破船以外でも、隕石などから金属を得ていた可能性がある。トリンギットなど、アメリカの北西部に住んでいた民族の言葉には、鉄に関する単語が存在している[19]。

宗教
1881年、アメリカ連邦議会はインディアンの宗教儀式を非合法化した。かつては「発汗小屋(スエット・ロッジ)」の話をしただけで逮捕されたのである。しかし逮捕や投獄の圧力を受けても、インディアンたちは脈々と信仰を受け継いできた。 ネイティブ・アメリカン・チャーチ ネイティブ・アメリカン・チャーチのシンボル ネイティブ・アメリカン・チャーチは、現在インディアンの間にもっとも普及している宗教であり、コマンチ族最後の酋長クァナー・パーカーを開祖とする。キリスト教のシンボリックな要素と多くの異なった部族からの霊的な習慣の要素を組み込んで1890年代に興った習合的な教会である。ちなみに、クアナ自身は生涯、キリスト教徒にはならなかった。 もともとは、メキシコのウィチョール族などが行う「ペヨーテ狩り」の儀式が元になっていて、ペヨーテのもたらす霊的な幻視と、その薬効の会得手順を儀式的に整えたものである。 保留地で暮らし始めた頃、重篤な病に倒れたクアナは、呪い師による治療を望んだ。メキシコ人とタラウマラ族の混血女性によるメキシコ原産のペヨーテを使った治療によって全快したクアナは、人類学者のジェームズ・ムーニイの後ろ盾で、このペヨーテを用いた儀式をネイティブ・アメリカン・チャーチとして組織化した(米国内では、ペヨーテはコマンチの居住する南西部にしか自生しない)。宣教師達によってペヨーテは「悪魔の果実」とされ、弾圧されてきたが、近年、インディアンに対しては使用が合法化された。 儀式はティピー内で夜間から朝にかけて行われ、ペヨーテを複数摂取することで進められる。治療や祈祷が主な目的であり、教会(チャーチ)という言葉から連想するような、キリスト教的な教義や説教といったものはない。 スー族においては、同チャーチの指導者たちはその3分の1が、ペヨーテの会合に関わっていると報告している。現在ではロサンゼルス、ミネアポリス、デンバー、シカゴ、ラピッドシティーといった各地のインディアンコミュニティーでペヨーテの儀式が開かれ、非インディアンが保留地へ足を運ぶ目的の一つとなっている。 中西部の宗教 バンデリア国定公園の復元されたキヴァ 南西部のプエブロ諸族の集落の中心にはアドベの古い伝道所があることが多い。元々はスペイン人の宣教師が先住民の改宗のために強制的に建てさせたものだが、現在では農耕と関係した精霊群への神聖な儀式の執り行われる祈祷所となっており、部外者による写真撮影や写生などは禁止されている。 また、プエブロ諸族の村々の中心部には古代からキヴァという地下祈祷所があり、トウモロコシの作付け・収穫などを中心とした祈祷が、年中行事として行われている。平原部族が命の糧であるバッファローの精霊を信仰するのに対し、プエブロ族は彼らの命の糧であるトウモロコシを神格化した「トウモロコシの乙女たち」[原 4] や「トウモロコシの母」[原 5] を信仰するのである。17世紀にはスペイン人宣教師たちによってキヴァは「悪魔の巣窟」として破壊された。同時に神聖な仮面が焼き払われ、呪い師や司祭も殺戮されて、ついにはプエブロの反乱を引き起こした。20世紀に入ってもキヴァを用いた行事は弾圧され続けた。現在もキヴァでの祈祷行事は、部族民以外非公開である。 カチーナを模した人形 アパッチ族は、『ガン』と呼ばれる山の精霊を信仰し、覆面をした『ガン・ダンサー』による祈祷の踊りを捧げる。また、ナバホ族は、彼らの神話に基づき『イェイビチェイ』という精霊達の行進行事を数日かけ行う。ホピ族とズニ族はカチーナという精霊群を信仰する。いずれも仮面行事であり、クラン(氏族)を中心として行われる。 プエブロ族、ホピ族、ズニ族に共通する神話のモチーフは、「世界が一度滅び、第二世代の先祖が地底から現れ現在の始祖となった」というものである。南西部に到達してから比較的歴史が浅いナバホ族の神話は、プエブロ族の神話を受容したものであるとされる。 生まれたときに祖父から与えられる守護動物をかたどった石のお守り「フェティッシュ」の習慣が根強い。 ニューメキシコ州では特に、スペイン人の宣教師によってもたらされたカトリックとインディアンの宗教の習合がよく見られる。この背景には、かつてキリスト教を強制し、古来の信仰を弾圧してプエブロの反乱が起きたことを教訓とした宣教師達が部族民の古来の信仰に対して譲歩したことがある。文化学者マチルダ・スチーブンソンはこう報告している。「プエブロの人々は表向きはカトリックと自称している。しかし、神父たちがいなくなれば、彼らは古来の儀式を始めるのだ」 特定の守護聖人を持つプエブロは、守護聖人の聖日を特別な料理を作って祝い、プエブロを訪れた観光客にも振る舞う。プエブロ民族のドラム演奏、詠唱、および舞踊は、サンタフェの聖フランシス大聖堂での定期的なミサの一部ともなっている[20]。 東海岸の宗教 クラン(氏族)を中心とした、農耕と狩猟に関係した精霊群への祈祷が基本である。人身御供の行事が多く行われ、敵対者や指導者の心臓や肉は、霊力を得るものとして儀礼的に食された。儀式の踊りに、鹿など動物の仮面を用いる。 彼らの神話・英雄譚には、ヴィンランドに入植したヴァイキングの、ゲルマン神話の影響を指摘する向きもある。また、フランス人が最初期に植民と布教を行った地域として、カトリックとの習合がしばしば見られる。例えばニューヨーク州にはカトリックに改宗したイロコイ族に関連の深いフォンダ(英語版)のカテリ・テカクウィサ教会やオーリーズヴィル(英語版)の北米殉職者教会[原 6] がある。 イギリス人が植民を行った地域では、ピルグリム・ファーザーズと接触したワンパノアグ族のようにプロテスタントに改宗した部族もあった。17世紀のニューイングランドでは、改宗した先住民は「プレイング・インディアン(英語版)」、「祈るインディアン」)と呼ばれた。彼らの集落は他のインディアンから開拓者を防衛するために開拓者の集落の外側に配置された。フィリップ王戦争が終結するとプレイング・インディアンらは集落に軟禁され、後にボストン湾に浮かぶディア島に抑留されて飢えと病から多くが死んだ。アイビー・リーグのひとつであるダートマス大学は、インディアンを教化する目的でモヒーガン族の牧師サムソン・オッカムらの出資により1769年に創立された。 中西部の宗教 狩猟に関係した精霊群への祈祷が基本である。部族繁栄を祈る大規模な儀式では、春に行われるユト族の「熊の踊り(ベアー・ダンス)」が有名。 モルモン教と呼ばれる末日聖徒イエス・キリスト教会の総本山のあるユタ州近辺では、19世紀から周辺部族への同教会への教化が熱心に行われている。当時のモルモンの一夫多妻制は、インディアンにも受け入れやすいものだった。かつてはモルモン教徒は彼らと結託し、西進してくる幌馬車隊をユタに侵入させないよう共闘して襲撃した。イスラエル人の数派が古代にアメリカ大陸に到達していたとするモルモン書によれば、インディアンは教典に登場する約束の民であるという(ただし前述のように、インディアンの先祖はイスラエル人ではなくモンゴロイドであることが判明している)。 女性シャーマンの習俗が多く見られ、深い森を幾日もさまようことで啓示を得る。死者を煙でいぶし、ミイラにして保存する部族も多かった。 西海岸の宗教 アメリカ西海岸では、18世紀後半から、入植してきたスペイン人の宣教師によってインディアンのキリスト教徒化が進められ、『ミッション・インディアン』と名づけられて支配され、白人の農場や牧場の下働きや、他のインディアン部族の監督に使役された。 漁猟民が多く、鮭や鯨の豊漁を祈る儀式が多い。踊りは伝統住居の「ラウンド・ハウス」内で行われるものが多い。 平原部での宗教 ラコタ・スー族の『ワカン・タンカ』のような『偉大なる精霊』を信仰する精霊崇拝が基本である。バッファロー・ダンスやベアー・ダンスで毛皮を被るが、踊りには仮面は使わない。「白いバッファロー」は大精霊の使いであると考える。 物心がついた男子は、呪い師と近親者に伴われて聖山に分け入り、四昼夜(女子は二昼夜)独りで「ヴィジョンを得る儀式(ヴィジョン・クエスト)」を行い、啓示を得る。この習慣は近年、全ての儀式の前に行う「発汗小屋(スエット・ロッジ)」の儀式と併せてますます盛んである。 人間の生贄の風習はなかったが、農耕民でもあったポーニー族やオーセージ族は、例外的に収穫祈念のため人身御供を行った。生贄には他部族の男女が使われた。 平原部族の多くは、遺体を毛布でぐるぐる巻きにして樹上に載せて葬送した。マンダン族などは、いつでも故人に会いに行けるよう墓に頭蓋骨を並べた。これらの葬送の習慣は、キリスト教会からの弾圧もあったが、遺体が白人によって持ち去られて大学の研究物にされたり、見世物として売られたりしたため、19世紀末には急速に廃れていった。 サン・ダンスの儀式 「サン・ダンス」とは、スー語の「ウィワンヤンク・ワチピ(太陽を見つめる踊り)」を英訳したものである。 平原の部族は、死ねば無条件で「狩猟の楽園」へ行くことができ、このため、今世は楽しみごとに費やすべきだと考えた。ただ、「大自然の力は放置すると衰退する」としてスー族やブラックフット族、シャイアン族、カイオワ族など平原部族の多くは、毎年夏至の頃に、大自然の回復と部族の繁栄を祈祷し、誓いを立てて大精霊に祈りを捧げるこのサン・ダンスの儀式を行う。 『スー族のサン・ダンス』(ジョージ・カトリン画) とくにスー族は、この儀式の中で最大の要として、「ピアッシングの儀式」を行う。これは、前年に「ピアッシングの誓い」を立てたものが、胸や背の皮膚に穴を開け、鷲の羽根や骨の棒を突き通し、バッファローの皮のロープで広場の中央に立てられたハコヤナギの「サン・ポール(太陽の柱)」と身体を結びつけ、メディスンマンの合図で皮膚がちぎれるまで太陽を見つめながら踊ったり走ったりすることで、大精霊に自らの肉体を捧げる苦行である。(図参照)。ピアッシングで最も苛烈なものは、バッファローの頭蓋骨を背中につないで走るもので、祈りの度合いによって頭蓋骨の数が増やされる。サンダンスで「ピアッシングの誓い」を立てた者は、翌年から毎年都合四回、必ずこれを行わなくてはならない。 このピアッシングの苦行はマンダン族が始祖とされる。かつてマンダン族の「オーキーパ(太陽の踊り)」は詳細なイラストとともに東部の白人社会にも知らされたが、彼らはこれをグロテスクな悪夢だとして本気にしなかった。この際、「ピアッシングは若者の勇気を試すもので、指導者となるための通過儀礼である」と説明され、現代でもこれに則った解説をする文献があるが、これは間違いである。19世紀のスー族の戦士は、このピアッシングについて、「自分の肉体は、自分にとって一番大切なものだから、これを大精霊に捧げるのだ」と説明している。 20世紀スー族のメディスンマン、ピート・キャッチーズは、サン・ダンスを「全ての儀式の『祖父』である」と述べ、またジョン・ファイヤー・レイムディアー(英語版)は、「白人は自分に都合よくなんでも簡単に片付ける。2000年前には自分達の代わりにイエス・キリストに苦痛を味わわせた。だが我々インディアンは自ら苦痛を引き受け、自分の身体でこれを体験し誓うのだ。『祖父よ、来年私は踊ります。わが肉体に串を刺し、誰かの回復に役立とう。我らの民を完全なものとするために』とだ」と語っている。 かつて白人によってサンダンスは野蛮な行為として弾圧を受け、インディアンたちはこれを隠れて行うしかなかった。インディアンたちの粘り強い交渉と説得により、フランクリン・ルーズベルトの時代になってようやくサンダンスが許可された。それでもピアッシングのみは絶対禁止されたが、レッド・パワーとともに復活され、スー族の伝統派、レイムディアーやマシュー・キング[原 7] らによって全米に広められた。また近年になって規定が緩み、女性のピアッシングも見られるようになった。女性の場合は、手首に串を刺す。 南部の宗教 クラン(氏族)を中心とした、農耕と狩猟に関係した精霊群への祈祷が基本である。ムスコギー族やセミノール族は、地元で採れるヤポンノキ(Yaupon、Ilex vomitoria)の葉を煎じた黒い飲み物「ブラック・ドリンク」を儀式の際に飲用する。この飲み物は儀式にとって非常に重要で、オクラホマに強制移住させられたグループは、代替物を煎じている。セミノール族の英雄オセオーラの名は、この「黒い飲料」の儀式の「音頭をとる者」という意味である。 ノース・カロライナ州のランビー族を含むインディアンは、ホーリネス・メソジスト教会のランバー・リバー会議を組織した[21]。アタカパ族やカランカワ族は、敵対者や指導者の心臓や肉を、パワーを得るものとして宗教的に食した。このため、他部族やヨーロッパ人から「人食い人種」と誤解された。 大西洋岸からミシシッピー沿岸にかけては、約二千年前に「マウンド・ビルダー」と呼ばれた部族群が、動物をかたどった、数100メートルもある無数の土塁・塚を建造している。オハイオ州のサーペント・マウンド(大蛇の墳丘)はその一つである。その直系であるナチェズ族は、18世紀にフランス人に文明を破壊されるまで、インカ帝国やマヤ文明のように太陽神を頂き、都市を築いてピラミッド型の神殿をいくつも建造していた。神官と僧侶からなる社会階級を持っていたのは北米でナチェズ族だけである。 ゴースト・ダンス サウスダコタ州パイン・リッジにおけるオガララ・ラコタ族によるゴーストダンス、フレデリック・レミントン画 1889年1月1日に、日食があり、大地が闇に覆われた。連邦政府による強制移住政策で飢餓状態にあったインディアン達は「世界の終わりが来た」として恐れ戦いた。この全部族的な終末感の中で啓示を受けた、ネバダ州のパイユート族の預言者ウォボカが教祖となって始まった信仰が、「幽霊踊り教(ゴースト・ダンス教)」である。 「ゴースト・ダンス」の信奉者達は、ゴースト・シャツと呼ばれる聖なる衣服を身にまとう。このシャツを着て死者の霊の歌を歌いながら男女で手を繋ぎ、円を描いてぐるぐると回ることで、信者の衣服は白人の弾を跳ね返すようになり、さらには白人がやってくる前の、バッファローの群れなす大草原が還ってくるという教義は、保留地への強制移住によって飢餓状態に陥ったインディアン達により熱狂的に支持され、大平原、さらに北西部に瞬く間に広がっていった。
弾丸を通さなくなるというゴースト・シャツの教義を始めたのは、スー族の呪い師、キッキング・ベアだった。このため、連邦政府は、この教義でインディアンがより反抗的になるとして、ことにスー族に対し徹底的に弾圧を加え、ウーンデッド・ニーの虐殺が起こった。この大虐殺で、信者が全滅したことで、ゴーストダンスは急速に廃れていった。100年を経ても連邦政府が、銃弾を厭わなくなるこの教義をいかに恐れているかは、スー族の伝統派やAIMが1973年のパインリッジ居留地内のウンデッド・ニーの占拠の際や1975年に、ウンデッド・ニーでゴースト・ダンスを復活させた際、連邦捜査局(FBI)捜査官が繁みに隠れてこれを監視していたことからも推し量れる。 テキサス州のカド族保留地(カドハダチョ連邦)では、ゴースト・ダンスは弾圧の対象とならず、現在まで続く年中行事である。ただ、踊りの作法などが違っており、厳密に上記の儀式と同じものかは分からない。
鷲の羽根法
以下略
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%82%A4%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%96%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%83%B3#%E8%84%9A%E6%B3%A8


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